今 私が思い起こすのは、The April を珍しく来店する仲間に聞かせていたこと。その後、モダーンミュージックに行くことは途絶えましたが、現在私が広く評価を得るきっかけを作ったのは、間違いなく生悦住氏のお陰と云えます。何故ならば、当時の私はモダーンミュージック以外のレコード店に納品を行なうことは、ほぼなかったからです。
次々と紹介されるロックマガジンのスタッフと仲間達。ある時、私は阿木氏の企画したイベントへの出演を要請され、当時唯一のライブ演奏(*)を大阪で行った。その時「今日、一番良かった」と声を掛けてくれたのが、現 Forever Records の東瀬戸悟氏。そしてバンド・モーツァルテユーゲントの谷崎テトラ氏とJ. P. テンシン氏。後にバンド名が PBC となって加わる松蔭浩之氏ともその頃に知り合った。
1980年代初頃、CastleⅠのレコーディング中に、私は Bea Pot Studio のオーナー、エンジニアの半谷高明氏が自作したプライベート音楽を知る。「鉄の夢」と云う金属音を主とした作品(後にThe Steele of Lewdness)と、回転する曲の何処から聞いても始まり=終わりと云う作品。ある時は消灯したスタジオで自作の翼竜の声?を3D体験した。「本当の音と云うものは、暗闇で聴くべきものだ」と半谷氏は力説。
それらの作品に私はすっかり魅了され、以降の作品を私は半谷氏と共同で制作することを決意した。The April と Ray は、自身の演奏の録音後、半谷氏一人に完成を託した作品となり、次の The Wine of Heaven では私はボーカル専念となり、以降長きに渡る二人の音楽スタイルへの分岐点となった。
夫妻の夫(ギターリスト)は、ロンドンでバンド活動を行っていた。メンバーの Graham Dowdall 氏は幾つものバンド( Pere Ubu 等)を掛け持つ人気ドラマー。彼らの練習とクラブでのギグを見るのは、私のロンドンでの希少な思い出となった。
後に Graham 氏の Nico & the Faction のメンバーとしての来日コンサートは、私にとって強く印象に残った。10年前、海外での初のライブ体験が、伝説のライブハウス Marquee Club での Nico(ハーモニュームのみ)のソロ公演(前座 Pere Ubu)だったからだ。その時の Nico は、The End の歌後に感極まり、ステージの袖に隠れてコンサートが一時中断した。
Notting Hill Gateのバーで待ち合わせ、新鋭のアクセサリーデザイナーと合流し、4人でチャイニーズレストランへと移動。会話の殆どが仕事の打ち合わせで白熱したが、時折り私に向ける立野氏の日本語は辛辣だった。ロンドンに来る日本人デザイナー、その殆どが如何に甘く生温いものであるかだった。
メンズブランド TUBEのデザイナー斉藤久夫氏からの紹介は、70~80年代のイギリスの音楽シーンに於ける伝説のカメラマン・トシ矢嶋氏だった。Notting Hill Gateのパブで実際に会ってみると、実にソフトでスマートな好人物。当時の矢島氏は、人気バンド Sade のワールドツアーにカメラマンとして同行し、貴重なキャリア後だったが、自身は「あの様なツアーはもう沢山。連日、コンサートとパーティーの単調な繰り返しにもう身が持たない」と語った。
結局、私にとってリリースに向けた具体的な話題はなかったものの、矢嶋氏の好意により大手 Virgin Records の大物A&Rを紹介された。
Photo : Th
1980年代、話題の英国レーベル 4AD Records のミュージシャンを日本に招くなど、4ADと交流をもっていた渋谷の某大型レコード店から、私は 4AD Records への紹介状を預かっていた。通訳に夫妻を伴ってロンドンの 4AD Records 本社、半地下に降りてスタッフ等と私のデモテープを聴きながら談笑。その後に何の発展もなかった。
矢島氏との後、Virgin Records にアポをとり、再びNotting Hill Gateへ。日本の大手芸能事務所とも繋がりをもつその大物人物は、自身の関わったバンド・Queen を The Beatles に並ぶ世界一流のバンドにしたいと、壁にある大きな写真を指して自らの夢を語った。
同行すればクラブをフリーで通れたりと仲間等には大変有り難い存在だが、私にとっては日本の音楽雑誌ZIGZAGの元編集者 Kishi Yamamoto と友人であることが肝心だった。Kishi 氏はレコードレーベル ON-U Sound の創始者の一人であり、ON-U Sound の名プロデューサー Adrian Sherwood 氏の妻でもあった。
何度もアポを取ってもらったが、直接 Kishi 氏に会うことは叶わず、電話口での会談となった。そこで Kishi 氏から聞く話しは、私にとって大きな衝撃だった。私の長年の憧れ Mute Records で発売されたMark Stewart と Adrian Sherwood プロデュースのアルバムは「マスターテープを叩き売って終わり。後は Mute Records とは一切関係なし」
夫妻の友人画家 Alan Dick 氏は、Siouxsie And The Banshees や Fun Boy Three 等、ロンドンの人気ミュージシャンを描く、注目の画家だった。その彼から紹介されたのが、売れっ子グラフィックデザイナー Naville Brody の助手を務める傍ら、アート志向の屈指レーベル Touch label を運営する Jon Wozencroft 氏だった。
Alan 氏と二人で Jon 氏のアトリエを訪ねた時に、意外にも Les Disques Du Crépuscule の JOSEF K が流れていたことを思い出す。近所でランチを共にし Touch label が主催する個展の話題後、別れ際に Jon 氏にデモテープを渡す。
その頃、私はある日本人ミュージシャン(ギターリスト)との会合を重ねていた。一体彼とはどの様に知り合ったのか、今となっては名前すら思い出せない。その人物は、元 This Heat のメンバー等と音楽活動を行っており、京都出身で、村八分と云うバンドとも繋がりがあったと語った。
やって来たのは、バンド AFTER DINNER の宇都宮泰氏を始めとしたメンバー等。夜、そのメンバーと合流し向かったのは、The Recommended Records の本部。既に AFTER DINNER は The Recommended よりアルバムをリリースし、ロンドンへはレーベル主催のコンサートに出演する為だった。この頃の The Recommended 本部は、廃墟の教会(不法占拠)を活動拠点としていた為、私達は人目を避けて裏窓から中へと侵入した。
電気は通って居らず(窓は全て塞がれ)蝋燭を灯した暗いテーブルを囲んで The Recommended Records の中心人物 Chris Cutler 氏とレーベルスタッフ等との思い掛けない晩餐会となった。その時の Cutler 氏はとても神秘的で正にレーベルのカリスマだった。帰国後、私は Cutler 氏にデモテープを送ると直ぐ返事があった。丁寧な文面の末には、以下の様な感想があった。「この音楽は、とても冷たい」
ロンドンでの3ヶ月が終わる頃、私は唐突に Notting Hill Gate の Virgin Records 本社のエントランスに居た。話しは通じず、困惑し内線する受付の黒人女性を見て、私はその場を後にした。後で考えてみても、一体何の目的で入ったのか一切の記憶がなく、帰ってからそのことを夫妻に話すと唖然とされた。
ライブでは、Einstürzende Neubauten、松蔭氏と一緒に行った Dead Can Dance (+ 映画 Mishima)が印象深い。
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大阪でのライブは、Tomo Akikawabaya名義ではなく、ギターとテープ(+スライド映像)によるインストルメンタル演奏で「 KiKi in the Nude 」名義での出演だった。ライブ時には、その名義による録音(アルバム)は完成して居り、自身が書き上げた小説と一体となったリリースを計画していた。