(1984)アルバム CastleⅠのリリース以降、私は日本の音楽に深く失望し、もはや海外でのリリースにしか自身の生きる道はないと考えていました。近年リリースのアルバム CastleⅡは、正にその状況下に於いてロンドンに渡り、リリースを試みた作品(7曲)を含むコンピレーションアルバムです。以下は、その当時の経緯となります。
CastleⅠのリリース時、数少ない擁護者の一人が、東京の明大前にあるレコードショップ モダーンミュージックのオーナー 生悦住英夫氏でした。訪問の度、私は生悦住氏に一階の喫茶に連れられ、プロレスと小林旭が如何に素晴らしいかを延々と説かれました。元来、前衛アンダーグラウンドを好む生悦住氏と私は志向が合わなかったにも関わらず、生悦住氏は大変寛容な人物でした。
今 私が思い起こすのは、The April を珍しく来店する仲間に聞かせていたこと。その後、モダーンミュージックに行くことは途絶えましたが、現在私が広く評価を得るきっかけを作ったのは、間違いなく生悦住氏のお陰と云えます。何故ならば、当時の私はモダーンミュージック以外のレコード店に納品を行なうことは、ほぼなかったからです。
生悦住氏「君のレコードは、日本のインディーズコーナーに入れると売れない。本当は洋楽のインディーズコーナーに入れたいんだけど」。その呟きは、自身が洋楽コーナーに入るには自身で国外に出てリリースする他ないという結論に至る、金言となりました。
80年代、絶大な影響力と人気の音楽雑誌ロックマガジンに、PRの一環として CastleⅠのレコードを送る。暫くすると阿木譲氏が突然大阪より現れ「君をスターにする」と豪語。既に何枚かのアルバムを自身のレーベル「ヴァニティ・レコード」よりリリースし、その音楽活動は広く知れ渡った存在だったが、阿木氏本人の人物像については、私は深くを知らなかった。
次々と紹介されるロックマガジンのスタッフと仲間達。ある時、私は阿木氏の企画したイベントへの出演を要請され、当時唯一のライブ演奏(*)を大阪で行った。その時「今日、一番良かった」と声を掛けてくれたのが、現 Forever Records の東瀬戸悟氏。そしてバンド・モーツァルテユーゲントの谷崎テトラ氏とJ. P. テンシン氏。後にバンド名が PBC となって加わる松蔭浩之氏ともその頃に知り合った。
しかし阿木氏と会うのは、その後の東京が最後となった。渋谷界隈で阿木氏と共に複数の業界人と接触し、夜には何軒もの酒場を回り歩く生活だった。最後の夜、ロックマガジンの表紙を担当する画家、萩原敏訓氏と写真家の尾崎玲美氏(後述)が同行。六本木のバーでは、阿木氏とは旧知だった坂本龍一氏が偶然同席した。
その頃、私は阿木氏と行動を共にするに連れ、様々な疑念が生じていた。制作中のアルバム(CastleⅡ)のプロデュースに何度も阿木氏をスタジオへ招待したが、その度体調不良を理由に固辞し続けた。ある夜、阿木氏から電話があり、ある依頼を断ると突然激昂。以降、阿木氏と会うことはなくなった。
1980年代初頃、CastleⅠのレコーディング中に、私は Bea Pot Studio のオーナー、エンジニアの半谷高明氏が自作したプライベート音楽を知る。「鉄の夢」と云う金属音を主とした作品(後にThe Steele of Lewdness)と、回転する曲の何処から聞いても始まり=終わりと云う作品。ある時は消灯したスタジオで自作の翼竜の声?を3D体験した。「本当の音と云うものは、暗闇で聴くべきものだ」と半谷氏は力説。
それらの作品に私はすっかり魅了され、以降の作品を私は半谷氏と共同で制作することを決意した。The April と Ray は、自身の演奏の録音後、半谷氏一人に完成を託した作品となり、次の The Wine of Heaven では私はボーカル専念となり、以降長きに渡る二人の音楽スタイルへの分岐点となった。
1980年中頃、私は CastleⅡのジャケット写真を撮った尾崎玲美氏と出会った。当時(日本のジェンダー史に於ける)先駆的な雑誌「月光」に記載された一枚の写真を見て、私はその雑誌社を訪ね、編集者の南原四郎氏の紹介により尾崎氏と知り合った。
特異な作風の尾崎氏だが、イオネスコやモリニエ等の名が彼女との共通言語となった。しかし CastleⅡのジャケット撮影には、自身が制作した(十字架)ドレスの提供にも関わらず、立ち合ってはいない。尾崎氏「トランス状態になるため、モデルとは二人っきりでないと撮れない」と説明。プリントはロンドンに旅立つ前、突然尾崎氏から直接手渡された。
その後、尾崎氏はバンド・ゲルニカの新作レコード(新世紀の運河)のジャケット写真を担当し、写真家への道を順調に歩むかと思われたが、忽然と姿を消した。その頃、私は尾崎氏を通じてゲルニカの第三のメンバー・画家の太田螢一氏など多くのアーティスト等と知り合った。
後に私の渡英を実現させたのも、また尾崎氏の紹介によるものだった。既に私は半谷氏と新しいアルバム(CastleⅡ)用の7曲が完成し、海外でのリリースへと移行するばかりだった。そして尾崎氏のロンドンの友人夫妻の紹介を得て渡英するに至った。前回からは約10年ぶりだった。
(1987)ロンドンに到着後、尾崎氏の友人夫妻は、私が予定の3ヶ月を過ごす為に Vauxhall 橋を渡って直ぐの Kensington Oval、有名なクリケット場側のフラットの一室を探してくれた。ロンドンでの活動には正に打って付けだった。
私の到着後、ゲルニカのメンバー上野耕路氏がベルナルド・ベルトリッチ監督の新作「ラストエンペラー」の音楽制作にやって来た。一度は坂本龍一氏により音楽は完成していたものの、ベルドリッチ監督の再編により急遽スコアーの書き直しに迫られていた。スケジュールの取れない坂本氏に変わり、上野氏がやって来た格好だった。
夫妻は連日、上野氏をホテルからアビーロードスタジオへ送迎し、スコアー再編とオーケストラ録音の連続する、上野氏の厳しいスタジオ生活を支えた。翌年、映画「ラストエンペラー」にて坂本龍一氏は日本人初のアカデミー作曲賞を受賞し、上野耕路氏は映画のエンドロールに記載された。
夫妻の夫(ギターリスト)は、ロンドンでバンド活動を行っていた。メンバーの Graham Dowdall 氏は幾つものバンド( Pere Ubu 等)を掛け持つ人気ドラマー。彼らの練習とクラブでのギグを見るのは、私のロンドンでの希少な思い出となった。
後に Graham 氏の Nico & the Faction のメンバーとしての来日コンサートは、私にとって強く印象に残った。10年前、海外での初のライブ体験が、伝説のライブハウス Marquee Club での Nico(ハーモニュームのみ)のソロ公演(前座 Pere Ubu)だったからだ。その時の Nico は、The End の歌後に感極まり、ステージの袖に隠れてコンサートが一時中断した。
ロンドンで私が最初に行動したのは、CastleⅠでジャケットモデルとなってくれた、モデルのアンジュから預かった友人への誕生日プレゼントを渡すことだった。その為に連絡を取ったのが、当時ロンドンで注目のファッションデザイナーの立野浩二氏。そのプレゼントはアンジュのモデル仲間だったスイス人女性。彼女は立野氏の恋人であり、且つマネージャー的存在だった。
Notting Hill Gateのバーで待ち合わせ、新鋭のアクセサリーデザイナーと合流し、4人でチャイニーズレストランへと移動。会話の殆どが仕事の打ち合わせで白熱したが、時折り私に向ける立野氏の日本語は辛辣だった。ロンドンに来る日本人デザイナー、その殆どが如何に甘く生温いものであるかだった。
メンズブランド TUBEのデザイナー斉藤久夫氏からの紹介は、70~80年代のイギリスの音楽シーンに於ける伝説のカメラマン・トシ矢嶋氏だった。Notting Hill Gateのパブで実際に会ってみると、実にソフトでスマートな好人物。当時の矢島氏は、人気バンド Sade のワールドツアーにカメラマンとして同行し、貴重なキャリア後だったが、自身は「あの様なツアーはもう沢山。連日、コンサートとパーティーの単調な繰り返しにもう身が持たない」と語った。
結局、私にとってリリースに向けた具体的な話題はなかったものの、矢嶋氏の好意により大手 Virgin Records の大物A&Rを紹介された。
Photo : Th
1980年代、話題の英国レーベル 4AD Records のミュージシャンを日本に招くなど、4ADと交流をもっていた渋谷の某大型レコード店から、私は 4AD Records への紹介状を預かっていた。通訳に夫妻を伴ってロンドンの 4AD Records 本社、半地下に降りてスタッフ等と私のデモテープを聴きながら談笑。その後に何の発展もなかった。
矢島氏との後、Virgin Records にアポをとり、再びNotting Hill Gateへ。日本の大手芸能事務所とも繋がりをもつその大物人物は、自身の関わったバンド・Queen を The Beatles に並ぶ世界一流のバンドにしたいと、壁にある大きな写真を指して自らの夢を語った。
「君のデモテープは、既に部下に渡してある。良いものであれば必ず連絡が行く」と語った後、また一人の人物を紹介された。それは実際に、日本人のバンドをイギリスで売り出している人物(日本人)だと云う。
日本のバブル期、人気ファッション雑誌のモデルがボーカルを務めるそのバンドは、イギリスでは全く話題にならなかった。その(70年代にインドより流れ着いたと語る)人物は、「イギリスで、精一杯売り込んでこの程度」「イギリスで、日本のバンドが成功することは絶対あり得ない」「夜中に日本から俺をイギリスで売り出してくれ、金ならいくらでも出す、と大物が何人も電話をしてくるが、全てお断りだ」と吐き捨てた。
後日、また誰かが日本の大手事務所から(高額で)依頼され、日本の人気バンドが「ロンドン公演」と称する動画撮りにやって来た。それを聞きつけた日本人達は、帰国後の思い出(恥)話しにとその(入場無料)会場に群がった。
ファッションブランド Beams からロンドン駐在員スタッフを紹介される。スタイリストでもある彼らは、ロンドンのファッション界に通じてとても華やかだった。彼らの住むフラットの一階にはユニークな日本人(スタイリスト馬場圭介)等が住み、その生活は楽しく実にオープンだった。
同行すればクラブをフリーで通れたりと仲間等には大変有り難い存在だが、私にとっては日本の音楽雑誌ZIGZAGの元編集者 Kishi Yamamoto と友人であることが肝心だった。Kishi 氏はレコードレーベル ON-U Sound の創始者の一人であり、ON-U Sound の名プロデューサー Adrian Sherwood 氏の妻でもあった。
何度もアポを取ってもらったが、直接 Kishi 氏に会うことは叶わず、電話口での会談となった。そこで Kishi 氏から聞く話しは、私にとって大きな衝撃だった。私の長年の憧れ Mute Records で発売された Mark Stewart と Adrian Sherwood プロデュースのアルバムは「マスターテープを叩き売って終わり。後は Mute Records とは一切関係なし」
夫妻の友人画家 Alan Dick 氏は、Siouxsie And The Banshees や Fun Boy Three 等、ロンドンの人気ミュージシャンを描く、注目の画家だった。その彼から紹介されたのが、売れっ子グラフィックデザイナー Naville Brody の助手を務める傍ら、アート志向の屈指レーベル Touch label を運営する Jon Wozencroft 氏だった。
Alan 氏と二人で Jon 氏のアトリエを訪ねた時に、意外にも Les Disques Du Crépuscule の JOSEF K が流れていたことを思い出す。近所でランチを共にし Touch label が主催する個展の話題後、別れ際に Jon 氏にデモテープを渡す。
その頃、私はある日本人ミュージシャン(ギターリスト)との会合を重ねていた。一体彼とはどの様に知り合ったのか、今となっては名前すら思い出せない。その人物は、元 This Heat のメンバー等と音楽活動を行っており、京都出身で、村八分と云うバンドとも繋がりがあったと語った。
彼は貧困にも関わらず美食家で、会う度新しいバーやレストランを指定した。そこで彼のオーダーに舌鼓を打ちつつもその時彼から聴く話は、その後の私の座右の銘となった。
「彼等は、道端に落ちている楽器や物を何でも拾って来て、演奏を試してみる」「下手でも何でも良いんだ、彼らにとって新しい音でさえあれば」「世界に一つしか存在しないものは、つまり世界で一番だと云うこと」そして、独り言のように「暗いものは・・・残る・・・」と加えた。
帰国後、私はお礼の意味を込め、彼宛てにお金を送金した。しかし何日経っても彼からの返事はなく、私は送金が無事なされたのかを送金所より確認すると、彼は確かに受け取っていた。
大阪で知り合ったバンド PBC のメンバー 松蔭浩之氏が突然ロンドンに来た。私以外のあてもなく、当面行動を共にすることとなる。後から友人等もロンドンにやってくると云うので、私も一緒に会ってみることにした。
やって来たのは、バンド AFTER DINNER の宇都宮泰氏を始めとしたメンバー等。夜、そのメンバーと合流し向かったのは、The Recommended Records の本部。既に AFTER DINNER は The Recommended よりアルバムをリリースし、ロンドンへはレーベル主催のコンサートに出演する為だった。この頃の The Recommended 本部は、廃墟の教会(不法占拠)を活動拠点としていた為、私達は人目を避けて裏窓から中へと侵入した。
電気は通って居らず(窓は全て塞がれ)蝋燭を灯した暗いテーブルを囲んで The Recommended Records の中心人物 Chris Cutler 氏とレーベルスタッフ等との思い掛けない晩餐会となった。その時の Cutler 氏はとても神秘的で正にレーベルのカリスマだった。帰国後、私は Cutler 氏にデモテープを送ると直ぐ返事があった。丁寧な文面の末には、以下の様な感想があった。「この音楽は、とても冷たい」
ロンドンでの3ヶ月が終わる頃、私は唐突に Notting Hill Gate の Virgin Records 本社のエントランスに居た。話しは通じず、困惑し内線する受付の黒人女性を見て、私はその場を後にした。後で考えてみても、一体何の目的で入ったのか一切の記憶がなく、帰ってからそのことを夫妻に話すと唖然とされた。
帰国後、これらのことを誰に話すでもなく私は日常に復帰。特に落胆することもなく、私は更に強力な作品が必要となることばかりを考えていた。それからこの CastleⅡが出るまでの約35年間、私の音楽制作は止むことなく続いた。
昨今、自身を「謎の日本人」と評する記事を見るたび、得も言われぬ気持ちが込み上げて来る。そのことが、私をこの文面へと向かわせた。
帰国して暫くすると夫妻の友人、元 The Monochrome set のドラマー Trevor Ready 氏が Danielle Dax のバンドメンバーとして来日。そのバンドと東京観光をしたのは、私にとって楽しい後日談だ。
今よく考えてみると、当時の私には居場所とも云えるレーベルとオーディエンスの一切がまだこの世に存在して居らず、私の前にはただ果てしなく荒涼とした世界が広がっているだけだった。
Tomo Akikawabaya
補足
アルバム CastleⅡは、当初よりイギリスではディストリビューション(配給会社)形式によるリリースを目指していたが、紹介者に会う時点では常に直接レーベルでのリリースに話がすり替わっていた。漸くディストリビューション形式でのリリースを探り始めた頃には、既にロンドンでの滞在がタイムリミットとなっていた。
ライブでは、Einstürzende Neubauten、松蔭氏と一緒に行った Dead Can Dance (+ 映画 Mishima)が印象深い。
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大阪でのライブは、Tomo Akikawabaya名義ではなく、ギターとテープ(+スライド映像)によるインストルメンタル演奏で「 KiKi in the Nude 」名義での出演だった。ライブ時には、その名義による録音(アルバム)は完成して居り、自身が書き上げた小説と一体となったリリースを計画していた。
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Nao Katafuchi氏が、このアルバム CastleⅡのリリースに果たした役割は大きい。有能なグラフィックデザイナーを紹介してくれた上に、モノクロのアルバム全体のデザイン・コンセプトを発案し、レーベルとの詳細な詰めごとまで行ってくれた。
ジャケットに記載した「この時代、私の回りにいた全ての善人と悪人に、このアルバムを捧げる」は、この時代の混沌とした私の状況を表す言葉。分かり良くする為に出来る限り一つ一つの出来事を完結に書いた。書かれた内容の全てが一表層にしか過ぎず、それ等の全体は遥かに大きな絶望によっていることは、最後に付け加えて於きたい。